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 飯盒を手にした兵隊が、肉が手に入ったので、食べるかどうかすすめてくる。
白豚か、黒豚かを聞く兵隊の声。
 
 私がアフリカに自転車で行くことを宣言したのは、高校に入った時でした。
勿論、誰も本気にはしていなかったのですが、高1の夏休み、友人3人と日本海に抜けるサイクリングの
計画を立て、天橋立までサイクリングに出ました。


友人2人は、天の橋立駅で帰路に着き、私1人このまま九州を1周して帰る旨の電話を、家にしました。

その後一ヶ月かけ、中国地方・九州を回ったのが、長いサイクリング旅行の始まりでした。


 当時、私の父親は、家族に戦争の話を口に出す事はなかった。この頃から日本を離れる9年の間、
私の想定した冒険の旅が、その想定を見越して試された実戦でステップアップし、実現に向かって進んで
形がみえる毎に、断片的に話をするようになりました。


中国を旅行中、招集にあった。
九州の部隊に入った。
始めは機関銃の隊で、・・・・・。
中国を転戦
南方方面(ブーゲンビルへ・・・・。)

冒頭の話は、激戦の南方戦線の話で有ります。


父は、キリスト教の信者であった、昔はね。
戦争から帰って来た時には、宗教を捨てていた。

86歳になって、人生を終えた時、新聞チラシの裏に鉛筆で書かれていた下書きに、
葬式は無用、戦友が待つブーゲンビルの?の垰に埋めて欲しい、無理なら徳島の海に骨を散骨、と言う主旨の文面。

当然行かねばならないだろう!。まずは家族揃って渦潮の渦巻く鳴門の渦に気持ちをこめて。
多くの戦友が待つブーゲンビルへ必ず行くことを誓った。


話は戻って、
先頭を歩くのは、黒人であった。白人は彼らの後ろに続く。
外国軍隊にも、日本と同じ人種差別が歴然あった。
先頭は狙い撃ちである、そのうしろは、すべての装備を放り投げ一目散に逃げる。
逃げる時は、全ての装備を放り出して逃げるので、彼らが残した食料をあけて食べる。
缶詰やクッキーなど本当に美味しいが、これを取ってみても、日本が負けることは明白では有った。
弾薬も少なく、彼らが捨てていったトムソン銃も使うが、パラパラと軽い音で連発できる。
敵の靴の中身を出して使わないと、日本軍には資材がなく戦えない。

前線に出る命令が下れば、山の上で見ている上官の伝令[戻れ]が無い限り、死ななければ戻れない。
その伝令さえ、途中で殺される。

続きは後日、、、


何でも食べた、カナブン(コガネムシ)を戦友と2つに割って食べた時、あせって食べたので、カナブンの足が
胃袋の中で暴れ七転八倒の苦しさ。クモを食べた仲間で生残ったものはいない。
カブト虫の幼虫が1番美味しかった。


私の畑には、カブト虫の幼虫が沢山取れるが、手にとっておいしいと言う感覚も起こらない。
確かにアフリカで私は野菜気が欲しくなって、緑の毛虫を生きたまま口にほうばった経験はある。
あこまで追い込まれないと、このカブト虫を生きたままお尻からかぶりつけないと思うのである。

親父は飢餓状態の中でも体力が他の人よりあった、理由は命のやり取りでの戦友を助けたお礼に、
他の兵隊には教えない事を条件にこっそり教えてくれた山芋の存在である。
戦友は、父に食べる事ができる山芋があると、葉っぱを見せて教えてくれた。
他の兵隊に知られてしまうとなくなってしまい生残れない。


将校が戦死すれば、新しい将校が前線に来る。若い将校は直ぐに死んでいく。
頭の良い将校は、親父の後に続く、中国からの転戦古参を信頼する方が、生残る方法と知っているのかもしれない。

どれだけ言葉でいっても言い切れる、表現できるものではないが、木に当った砲弾が炸裂した。
親父が坐っていた所、席を譲った兵隊の頭に破片が当り頭が割れた。気が狂った兵隊が、脳みそを喰らい始めた。
この後は話が途切れた。この兵隊の後の事は・・・。

進んでくる兵隊の先頭は・・・・・。豪の前には黒人の兵隊が倒れている。日増しに膨れてやがて悪臭を放ち始める。
目の前の顔が見える打ち合いはつづく。
悪臭にたまらなくなって、埋める事にした。黒人の死体に近づいていくと、敵からの攻撃がぴたっと止まった。
穴を掘って埋葬する間敵が撃ってこない、土を掛け終って豪に戻ると同時に攻撃が始まった。


瀕死の傷を負って、本人が殺してくれと嘆願するが出来ない。
蜂の巣のように砲弾が落ちる。
そこで、せめて敵の弾に当っての戦死にと言う事で、小さな屋根をつけた小屋を作ってそこに運んだ。
雨アラレと降り注ぐ砲弾と弾が炸裂するにも関わらず、当らない。簡単に当って死ぬのに、死なない場所も
あるもので、弾も当らず力尽きた。
親父たちは、穴を掘って彼を埋めたが、攻撃の砲弾が落ちると穴から飛び出してくる。
幾度埋めても飛び出してくる。掘るのを止め砲弾の穴に入れて埋める。
当らない者は、本当に当らない事もあるものだ。

兵隊の最後の過酷さは、名誉の戦死しか家族を守れない時代の怖さ
兵隊は死んで帰っても、その区別にこだわるしかない。

死ぬと解かっての出陣、出て行くものは誰一人帰ってこない。
隊も日本に何もしないでは面目も無い報告だが、戦って死んだ(全滅)は、戦っているという証でもあるから、
死の戦い負け戦にも出す。要は死んで来いであろうか。

命令を受けた小隊長が仲間を引き連れて出陣したが、到底後の戦いに人員を残した方がと言う判断で
生きて引き返してきた。

隊長は、指示に背いたと言うことで、銃殺する事にしたが、温情で自決と引き換えに、報告は戦死扱いとした。
スコップで自分の墓穴を掘らせ、その中央で拳銃で自決させた。親父は自分だったら、その銃で上官を撃っている
どうせ周りから撃たれても死ぬのだから。犬死する部下を救った(その時は)事を父は評価する口調であった。

中国から始まった戦争は、太平洋南方戦線への転戦と終戦まで生残っていく事は本当に幸運だとしても、
幸運だけでは語れない僅かではあるが、生残る努力と能力が、その瞬間に気転が利くかで、その運命を
左右し、人間であり続けるか物になるかを支配した。

甲種合格の為に、機関銃の班にて戦ったが、機関銃は重く、設置して撃てば、今度は敵から1番先に狙われ
攻撃目標となる。命がいくら有っても殺されると悟り、通信の勉強を必死で勉強した。
 通信兵の空きが出た時にその応募のテストを受けて、その任務が代わり命ちを永らえる方法を取った。
攻めれば隊の後に続き、撤退を始めるその前に引き上げるからである。
しかし、戦況が不利になってくると南方に送られ、やがて激戦況下では、通信そのものが使えない状態にまでに
陥り、やがて必要も無く戦うしかない状況になった。


幾度か死んでいただろう事は、幸運も助けになっている、自分の居た椅子を譲った兵隊に炸裂した砲弾が
と言う場面だけではなく、自分の真横に爆弾が落ちて、土砂を跳ね上げ被ったが、それは爆発しなかった不発弾。
両手では回らない胴回りだった。爆発していたらそれまで、・・・。
拙攻に出て敵に遭遇するが、確実に撃たれる状況だった瞬間、沖縄出身の射撃の名手に瞬間助けてもらった。
100発100中の名手らしい。戦闘で指が飛んだが、その後も良く戦ったが終戦目前に戦死した。

食料事情はひっ迫していたのは南方戦線の当然ではあるが、
一斗缶に入った食料(乾パン)5個を守る当番を任され、夜の警備に当っていた時、手榴弾を投げ込まれて
殺されそうになる。
食料を奪いに来たその男の股間に向け撃つ。落ちていた手拭には落とし主の名前が・・・・。
父は一度その名前を言った記憶があるが、私は覚えてはいない。その後名前は出てこない。どちらにしても
終戦までに生きてはいない。手拭の件は上官には報告していない。

そんな中にあって無傷であった訳ではない。弾は幸運にも抜けた。傷口は膿んで壊死も起こる。
傷口にうじがわいて壊死した肉を食ってくれるのでやがて治ることもある、と、傷口の後を見せてくれた。
軍医は藪だから切り落とすしかない。痔がひどくなったときは、焼け火箸を突っ込まれたが、泥の中を進むと
もっとひどくなったという。


続きは後日


新しい軍医が赴任して来た。死んだ兵隊の鉄兜を土豪の淵に棒支えて、如何にも沢山お兵隊が居るように
敵に見せていた。
 軍医が逃亡を図り敵に向かって走って行く。100発100中の沖縄の彼が、すかさず撃とうとする時、
さえぎって打つな!と止めた。理由を聞かれ、砂が銃身に入らないために先に詰めた栓を指摘した。
 逃がしてやりたい気持ちが有ったのだろう少しの解かる気持ちも滲み出ている。
しかし、その後は凄い仕打ちがまっていた。
翌朝、〇〇軍曹以下〇名、美味しい味噌汁がありますよ!手お挙げて出てきなさい。と言う放送が流れ
少数である事が筒抜けになった。しばらく放送が続いて鳴り止むと、痛烈な弾丸が容赦なく降り注いだ。
おそらく、この時命の恩人沖縄兵は、死亡したと思われる。

世の中は奇異な物である。平和になって何十年も経て、人生を振り返る年齢、中国の思い出にと、
中国団体旅行に参加する気持ちになった。
旅行会社が出発の時に配った参加者名簿の中に、その軍医の名前があった。夫婦での参加であった。
こんな偶然があるだろうか。父は旅行中心穏やかではなく、面白くない旅行となってしまった。
 しかし、軍医も2〜3日して気付いたのだろうか、気分が悪いと言う理由で、皆での食事にも部屋にこもって
出てこなくなった。
 平和になってどちら側にも取り返しの出来ない傷が残って居る。これは、灰になるまで消えないことは
親父も理解しているようだ。あの夫婦も旅行中辛かっただろうな!おそらく奥さんはなぜなのか
解からなかったのだろうが・・・・。出発より前に参加者の名前がわかっていたら、参加しなかった、と
父が言っていた。

前戦に出て敵と向かい合う塹壕で、通常は全滅する場面で何日も渡り合った末、指令の方が山の上から見ていて
未だ生きているのに根負けして、引き返す命令を伝達してきた。
あまりにも激戦で有った為に、数日の休養を命ぜられた。
その休養中に、終戦を迎える。
終戦が1日早いか遅いかで、死んだり死ななかったりする意味では、終戦日の決定した人の判断責任は大きい。
また、終戦記念日は、それを感じ思い起こして迎えるべきであろう。 と思うのである。

捕虜となり、収容されると裁判が始まる。
どのような情報を元にか解からないが、呼び出されると何らかの判断がなされ、死刑が執行される。
覚悟を決めて、最後の抵抗に捕まる前に銃剣の先を折って、ふんどしの中に忍ばせた。
決定の瞬間にせめてその場の1人にでも、と思っていたが、下士官以下には責任は問われなかった。

彼らの重罪の認定者に、本人ではないと言い張って、戦死した同名に成りすました士官もいた。
どう受け取るかは状況を知らないで行けば是か非かでは、是であろうが、少なくとも兵隊より良い物を食い
偉そがって兵隊を犬やちきしょうの如く扱ったやからが、最後のあがきとしては醜くおもったとしても、許される事かも
しれない。

 部下に対して戦う事以外での卑劣な行為を兵隊に行なった将校や上官は、引き上げ船で日本に着く前に、
甲板から海に放り込まれた。


父の部隊の生き残りは父だけである。生残った者が戦死の書類をつくる作業に当る。
名簿を頼りに知っている名前は状況も合わせ、戦死となるが、日にち等は解かる筈も無い。
始めの頃は、遺体の一部等を納めて、そのうち指など切り取ってなんとか遺族にとはあったが
そこいらの石ころを入れ、命日になる日が節句を避けた其々の日にちを割り当てていくが、死者の数が多くて
重複させたりと、本当の日は誰もわからない。明らかに病死であるもの以外は、戦死として石ころと命日が
あてがわれる。
 遺族は気の毒ではあるが、それを信じて手を合わせる事となる。が、戦った証としては後々公な認定書(台帳)
として遺族の称号でもある。そこで書き漏らせば遺族が遺族である証は誰も証明できない。


後日に続く

私は2年6ヶ月の旅行の中で少なくとも、病気・自然・交通で5回以上死ぬかも知れない(運が悪ければも含め)
機会と言うかめぐり合わせの危機が有った。
 戦争に捲き込まれた経験もある(タンザニアとウガンダは1973年戦争状態で有った。)が、それは私が
望んでのことである。確かに過酷なたびであったが、止めるも続行するのも私自身の判断でも変更される訳で
父のような、生死、特に死ぬのが解かっていても他人が支配するものではない。
食料がなく、草木に育った青虫を生きたまま口にほうばって食べたり、蟻塚から飛び立つ羽蟻をつかまえ、
たんぱく質の補給を行なっても、その比べる比ではない。

ただ、私の場合、砂漠のど真ん中で、死ぬかもしれないでひたすら死ぬか生きるか運を天に任せ、ハゲタカが
見届け人の如く、木の上から死ぬのを待っている状態で、待たれる人の心の経験として言えることは、
意外と穏やかではあった。
 それと同じくして、サハラを横切っていた日本人がもう一人いた。
のちに、{かみおんゆ}という人と聞いたが、彼は私と同じ状況であろう砂漠の低木の木の下でだいぶ後で発見された。
おそらく死因は思い当たるのであるが、その記述は後日行なう事にする。


1974年10月7日、最後に辿り着いたパリを離れ、日本に向けエアローフロートは飛び立った。


海外2年6ヶ月のカルチャーと価値観は、その後同じ2年6ヶ月経っても、抜けきれるものではなかった。
父も、戦争体験の事を、その後少しづつ、忘れる前に綴っていたようだ。
帰国後5年経った折に、相当数書上げた原稿を私に託した。
残念ながら、預かったまま私の手元にまだある。


その後父が、86歳で死去すると、戦友会を通じて母に連絡があり、父の体験談を是非にと言うことで
実家にある原稿を本に、母が構成した文章が本として自費出版の形で出版された。

タイトルは、シオミパイヤの苦闘である。時間と機会があれば、このタイトル名から読めるように
リンクさせます。

後日に続く

リンクさせました(完全な全巻ではありませんが)