関西弁は世界に通じるんです
この僻地に来て、それ程日本人には会わなかったが、会って話を交わした彼らの故郷は、関西より西の出身者ばかりで
滋賀県より東の人に会うことはなかった。
世界に飛び出すこの感覚は、どうも日本開国以前から、西日本人が持ち合わせたフロンティア精神か、興味を追求すると
どこにでも出かけてしまう行動力が関東人と違いのではと実感した。
関西弁だけで旅行を通している旅行者にも出くわした。それでも通じるので、こんな僻地に入ってくれるのである。
続く 後ほど記載
実は私も英語は苦手である。昭和32年頃に、世間では英語が大事と言う社会状況ではなく。
当時の日本では話す環境にはなかった。
私の父は、戦争体験から英語の必要性を確信したのだろうか、私たち兄弟は当時珍しい小学5年生から
小学校の授業の後、電車に乗って天王寺にあるYMCAで英語の勉強を受けさせてもらった。
いわゆる今で言うネイティブのイングリッシュである。
ところがそう言う教育に適した子供とそうでない子供がいるようで、私の場合は後者であった。
しかし、それなりに本当の英語に接していたので、中学に入るころには違和感をもつことは無かったです。
中学に入ると、英語は受験英語で、話す事の重要さはそれ程大事ではないようでした。
当然、始めは中学授業は人より取っ組みやすく、同級生よりは楽であった。それが私の怠慢につながり
やがていつの間にか同級生に抜かれ、付いて行けなくなったと言うか、英語が嫌いになった。
授業は、文法が主な出発点で進み、記憶だけの英語の苦痛。高齢教師が担任であった。
発音が全然違うのである。
今、同じ位の年齢になって理解もできるのですが、私も歯が悪くなりシューシュー抜けるので確かに教えるのは
難しいのかもしれない。(大学に入っても教養課程の教授は似たようなものだった)
2年生になると、優秀クラスから格下げされ、そこで出会った英語教師はまた最低であった。
今度は確かに若く、且つ英語の発音は本物に思えた(黒人風の発音)の先生でした。
ただし、英語が出来なかった場合や予習を忘れてくると、廊下に並べられ、端からビンタをする。
場合によっては拳固でどつく先生で、歯が折れた友達も出た。
英語の授業としては最悪であろうと、今でも思う。本当に英語を覚えたかったら、その年代なら海外に3ヶ月行けば
英語の馴染が出て、あと、3ヶ月あれば、6年掛かってやる英語より早く到達できる思う。
普通の私たちが必要とする、使う英語は学問ではなく生活であるが、学問を先にやって結果しゃべる事の出来ない
日本人を沢山排出した、というのが日本の教育であろう。(その件は、私が日本を発ってエチオピアのアジスアベバ
到着一ヵ月後、あまりにも実感したので母校に書き送った事で何か話題になったらしい。)
出発までの英語の話は多々あるが、それは何かの機会にということで、むしろこのアフリカを通して
ある女性から素晴らしい言葉でそれまでの呪縛が解けた。
フランス美人の会話から
あなたは、難しい日本語と、訳のわからない文字を書くことができる。それは私には出来ないすごい事です。
まして、今フランス語を話そうとフランス語も話している。これはもっとすごい事です。
普通は話せない事が普通なのだから。話せないことは、何も恥ずかしい事ではない。
先にも書いたが、エチオピアに入って、何ら会話が成立しない事を知った。
エチオピアのオフィシャルラングエッジは、英語である。
しかし首都から外れるとアムハラ語が生活会話です。
アフリカでの正式な言葉は、植民地支配した国の言語が公式となるが、民族的共通現地語も存在する。
東アフリカ3国は英国の植民地で英語であるが、スワヒリ語共通して使え、その範囲はザイールの東にも達する。
ザイールはフランス語でも、ベルギーフランス語になり、西側では紙幣セーファーを使っている地域がフランス語圏
なにせ、混在するフランス語国と英語国を抜けるわけだから、それなりの会話が必要になってくる。
話は戻って。
オートボルタの首都ワガドゥグで、その彼女に会った。
会ったと言うよりも再会したと言うべきか。
丁度1年前辺りだろうか、ザイールの東にあるルブンバシから、キンシャサに向かうどこかの小さな村で、
休憩していた時トラックが止まった。沢山の現地の人の中に彼女が混ざっていた。
言葉は交わさなかったが、その時はアメリカ人かな?ぐらいに思った。
記憶に残るのは、あまりにも無防備なその姿はセクシー。
ベトナムの服のような(アオザイ)白いワンピースにサンダルを履き
バック一つと手に袋物を持っていて、旅慣れていると言うか、危険極まりない女一人旅。
むしろ人目につく盲点で、危険を回避する手立てを知っている、彼女は女を知っている凄いバックパッカーだと
その時思った印象は強烈に今も残る。
ワガドゥグで出会った時には、もう他人ではなかった。彼女も私を覚えていたようだ。
話を交わしていないのに、お互いが分かり合っていたのだろう。
だから、どちらから声を掛けたのか記憶が無い。
彼女がフランス人であることが解かったのは、フランス語を話して会話した事から。
後に続く
彼女は、アメリカのピースコー(日本で言う青年海外協力隊のうようなもの)の政府が受け入れに建てた宿舎で
アメリカ人の家で泊っているという。なるほどなるほどと心では思ったが、それは邪推と直ぐに分かった。
アメリカ人には会わなかったが、彼女は彼の部屋のドアの入った直ぐの所にテントを張って泊っていたのである。
私には、隣の家が空いているよ、と教えてくれた。隣のピースコーの人は、薬に溺れて見つかって返されたそうだ。
ビザ申請で許可を取るまで隣を借りる事にしたが、床には色んな薬や注射器、座薬なども散乱していて、
如何にも薬ずけ見たいにも思えるが、おそらくマリファナ(ハッシシ)位で、これらは何らかの病気持ちだったんだろう。
彼女はこれからサハラを渡って最終パリに到着すれば、日本に帰ると言うと、一つのアドレスを書いてくれた。
後で分かった事だが、彼女はパリジェンヌだあった。お姉さんに私が行くと言う連絡をしておいてくれたようで
そのアドレスを持探すと、なんと凱旋門の近くシャンゼリゼ通り1本横の、アパルトマンの1フロアーであった。
私はこの出会いで、パリに3ヶ月、自由なパリフリー観光が出来ることになった。
※ 自転車旅行は7月14日パリ到着で終わった。7月はバカンスの季節。パりっ子は国外へ。
パリは観光客やバカンスの出来ない移民が多いという。パリジェンヌは留守なわけで、
アフリカでパリジェンヌに会えたわけだ。
後に続く