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私がサハラくんだりを、テンベアーしていたのは、1973年の中頃から74年6月頃であろう。

 【かみおんゆ たかし】と言う彼の名前を聞いたのは、日本に帰ってからである。
彼が同じサハラにいる事は、ニジェールとナイジェリアが接したこの分岐点で
バックパッカーから聞いた。名前は知らなかったが、この分岐点には2度立つ。
東から来た時か、西アフリカを回ってこの地点に戻り、北へ向かう時かである。
今のところ思い出せないが、おそらく西アフリカを回って北へ向かう2回目の時と思う。

白人バックパッカーが自転車の私を見つけ、私に向かってこめかみに指ピストルでクルクル回わすしぐさで
情報をくれた。自転車で渡るのか?日本人は、クレージーが多い。
ラクダで1人でサハラを横断している日本人がいる。
何か病気を治す為にナイジェリアへ行ったようだ。
私は聞き返した。「ラクダは何頭だ。他にヤギは?水は何に入れている?」
彼の答えを聞いて、私は、すかさず言った。
彼は、死ぬ!。

なぜ即座にその言葉が出たのか。
それは、私の計画アフリカの最後のイベントとして、サハラ縦断「3匹のラクダと10匹のヤギ」計画が残っていて、
この分岐点で計画の断念を含め、悩みぬいて中止しようかという答えが出かかっていたときだからである。

水用のラクダと自分用には2頭、自転車用に1頭。生きたヤギは歩かせて、新鮮な肉を食わなければ病気になるのは
船乗りの海の昔からの警告として有名だが、ラクダは足をくくって休ませる扱いが基本で逃亡される。
噛み付かれるので、その扱いに馴れさせる必要もあるし、扱いは砂漠的にしなければならないが、
動物好きの日本人には、結構荷が重いのだ。彼らのR(アールの発音)がきついのは、命令が動物に届きやすい言葉
から来ているものだと私は思っています。(その他にプシィーという空気が口を抜けて出す破裂発射音)

 私にとってマラリアの再発が命取りになる事は、今の状態から想像がつく。
また、何の病気か知らないが、治療をしにナイジェリアへ行く行為も同じ状況でもあった。

私にとって、最後から2番目の挑戦計画断を断念する決断を、苦しんでこの時に答えが出たタイミングだったのかも
しれない。

彼が行方不明であることを知ったのは、日本に帰ってからのことである。だから名前は覚えていたが
その後は無関心であった。

当分の間遺体の発見は無かった事を、なにげに開いた新聞で読んだ。
新聞には偶然に遺体とパスポートが発見された報道が、載っていた。
 紙面には、お金の存在が無い事で、人が関与した疑いをさぐる記述もあったが、私は事故死又は、
病死である事を確信した。

背景は、アカシヤの低木の下であり、パスポートが見つかった事。
人為的な場合、パスポートさえなくなるはずで、お金に関しては、発見される前に誰かの発見によって
無くなることもある。

低木の木の下は、死ぬ前の安らぎを取る最後の自然の恵みで、私もその下を選んで休憩も、また、
病を治す為の長期のテント設営もした。
しかし、動物である本能は、人間だけではなく、あらゆる動物もオアシスを求めて集まる。
病気でなかったら、それは注意深さが足りなかったか、それお超えて、動物が注意深さを持っていたかであろう。

たまたま、私は自転車旅行である。自転車はパンクする事もあるが、アカシアの木から落ちてくるトゲの枝は、忍者の
撒き菱みたいにとげが上に向く。麒麟や象がなぜ踏まないのか解からないが、自転車はいちころなのだ。
エチオピアからケニヤへサハラを超えた時は、パンクに悩まされたので、草むらを含め立ち入る注意深さは備わっていた。

サハラを走っていて(押していて)アカシヤの木の下へ慎重に自転車を引き込もうとしたとき、
その砂の上にかすかに模様が有った。

じっと目をこらして見ると、小さな角が見えた。それは大きな毒蛇でした。
木の棒を近づけると、飛び掛ってきた。噛まれると1時間以内には天国にいます。
誰も助けには来てくれない事は、辺りが地平線まで見える砂の海ですから、覚悟は必要です。

話は変わるが、ラクダ1匹はの価格は、25,000セーファー(西アフリカフラン 約2万500円から3万円)。
ヤギは朝市で仕入れれば結構安い。一匹生きたヤギを引っ張ってきて、目の前で捌いて串焼きにする合理さ。
この方法なら新鮮で、食材が歩いて現場なで来てくれる。そこに目をつけての10匹の食料を歩かせる方法は
いいアイデアーであった。

後へ続く
画像有り、後日掲載

中央アフリカからカメルーンを経て、ナイジェリア国境に入る分岐点に立つ。
北に上ればニジェールとアルジェリアの国境サハラ砂漠ど真ん中の町タマナラセット、南に下ればナイジェリアのラゴスに向かう。
そのまま真っ直ぐ進めば、オートボルタのワガドゥグへ。
その分岐点で、私はヘドを吐いていた。
 カメルーンで再発したマラリアの気配を押さえきれず、この分岐点に来てひどくなり行き倒れ状態であった。
マラリアの治療薬(ニバキン)が効かないのか、一向に良くならず、あせって予防の量と、治療の量がごっちゃになっていた。

ナイジェリア国境の町に無料の病院があるとの情報で、一度治療しに国境を越えて行く事にした。
治療は注射を打っていただき、薬にニバキンを渡されそれを目の前で飲まされた。
自分でも先程飲んでいるのでもはや量はオーバーしているのは解かっていたが、私のは1年近く前の購入でもあり、
現に効かないから、ココに来ているのだからという気持ちから、拒否はしなかった。
 分岐点に戻ってから吐きまくったのは言うまでも無い。胃袋の中には何も無くただ吐きまくった。

薬によって、マラリア原虫と自分の身体を傷め付けて、とりあえず身体が勝った。
ナイジェリアへ入国して、下って首都ラゴスへ。ダホメ・トーゴー・ガーナー・アイボリーコースト・オートボルタを廻り、分岐点に
サハラの南縁に沿って分岐点を目指して走っていた時、マラリアは再発した。

ワガドゥグを出発して東へ砂の道を進む。
サハラを越えるためにタマナラセットへ向かうナイジェリアの国境との分岐点は、辿り着けば丁度一回りした事になる。
ただ、そこまで辿り着く前に、覚えのある揺らぐ地面がマラリアの再発を予感した。
漕いでられない感覚がひどくなり、1本の木に自転車を立てかけ、その日陰に横になった。
こう云う場合、じっとしているのか1番である。
昼間から寝ていていつ頃になったのか、緑のランドローバーが目の前に止まった。1人運転の車であった。
私の自転車が見えたのであろう。白人の男性が運転席から降りてきて自転車に近づいてきた。
近づくとまでいわない10m程で、私が倒れたように寝そべっているのを見ると、走って車に飛び乗り走り去った。
そんなモンさ。

少し元気が蘇ってので、場所を移す事にした。夕暮れまでに何らか安全を確保できる所に移動しよう。
できるだけ人の居る所に居る方が安全である。
複数人数が居ると、余程すれた場所に入り込まない限り何も出来ない事は、これまでの経験である。
多くの人が集まる形跡のある露天の市場の前見たいな所の木の下にテントを張った。
やがて、最悪の事態なのか、気力が無くなり目が回って起きる事が出来ない。
人々が集まる声がする。食べ物の匂いもする。人が覗きに来たが、状況は彼らに伝わったのか、干渉もされない。
どうも、生産したものを交換するか、売るかで、一時集まる市のようで、それを目当てに、ヤギの肉をや食べ物を持って
売りに来ているようだ。時間が経てば、帰って居なくなる。

私が身を寄せている木の上に、ハゲ鷹が止まったのは翌朝であった。時折こちらをうかがう。
3日間、私が死ぬのを待っていた。
時折離れた所へ降りていたが、最後の日は近くに降りて私の方に近ずき覗き見て、飛んで行った。
どうも、ハゲタカにも見放されたようだ。これで、生きてしまうと診断されたようだ。
翌朝、少し動けるまでに回復した。朝引っ張られてきたヤギが、肉にされ、香辛料にまぶされて串に刺さって焼かれる匂いに
目が覚めた。
とい合えず今回は生還である。
肉等を買って食う事で体力を取り戻す事も大事だが、ヤギの捌き方も生きるかてになる。
ヤギの糞と腸の関係はその形だわ。